2016年1月9日土曜日

意識とは何か  ―― 阿弥陀(Amitābha)・毘盧遮那(Vairocana)との関係を考える ――


 『意識は傍観者である』(著者:avid Eagleman、翻訳者:太田直子、早川書房)に、「麻薬と呼ばれる小さな分子が持つ強い影響力を考えてみよう。この分子は意識を変化させ、認知に影響し、行動を探る」、「ホルモンも同じだ。ホルモンは血流に乗って、行く先々で大騒ぎを起こす目に見えない分子である。メスのラットにエストロゲンを注射すると交尾を求めるようになり、オスのラットのテストステロンは攻撃性を生む」、「脳の然るべき場所で活動に火が付くと、人は声を聞く。医師が抗てんかん薬を処方すると、発作はおさまって声は聞こえなくなる」、「あなたの認知経験に影響するものには、人間でない小さい生きものも含まれる。ウイルスやバクテリアのような微生物は、独特のやり方で私たちの行動を支配し、私たちの内部で目に見えない闘いを繰り広げている」と書かれている。

 意識や自分自身では知り得ない自分の心の深層の無意識は何処から来るのだろうか?上記の本には、性染色体のYを持っている者、すなわち男の犯罪率の高さについて、アメリカ国内における年間平均凶暴犯罪件数のデータが示されている。加重暴行・殺人・強盗・強姦をする者は男が圧倒的に多い。その本には「私たちが何ものであるかは、意識がアクセスできない水面下で動いていて、細部は誕生前までさかのぼり、精子と卵子の遭遇によって与えられた特性もあれば、与えられなかった特性もある。私たちが何ものになりうるかは、分子の設計図――目に見えないほどの小さい酸の鎖に閉じ込められている一種のエイリアン・コード――によって、私たちが関与するずっと前に始まっている。私たちはアクセスできない微視世界の歴史の成果物なのだ」と書かれている。

 この地球上にもやがて人は住めなくなる。人が死んだら魂はどうなるのか?そもそも人の魂はその人が生きている間だけその人に備わっているものだろうか?この魂のことを私は「意識や自分自身では知り得ない自分の心の深層の無意識」と同じものであると考える。その「意識」・「無意識」をひとくくりにし「意識」と呼ぼう。人の魂は意識そのものである。意識は人の脳の中の記憶・想像・思考・認知・言語・指令などの諸活動が統合されたものである。人はその統合された活動によって、歴史を残し、それを後世に伝えることが出来る。後世の人はそれによって歴史上の人の事績について知り、その歴史上の人が生きていた時のことを想像し、物語にすることが出来る。

それどころか、人は何万年も前の遠い先祖たちのことや、その先祖たちが生きていた時からさらにさかのぼって太古の先祖たちのことや、当時の地球上の諸現象などについても考古学・遺伝学・生物学等の諸知見を基に想像することが出来る。逆に人は自分が死んだ後の地球上のことや宇宙のことについてあれこれ想像することが出来る。意識はこのように時空を超え、広大無辺に、融通無碍に、自由自在に延伸させることができる。しかし、我々はその意識の本質を未だ知り得ていない。科学者たちは意識を科学的に解明するため頑張っているが、100年経ってもそれは完全に解明されないのでないかと考えている。私は、意識の諸現象については科学的に完全に解明されるに違いないが、意識の本質は科学的に解明できないのではないだろうか、と思っている。

私は、宇宙が人も生きものも意識も含むすべてを支配していると考える。私は、宇宙は人間の意識を超越した生命そのものであると考える。17世の哲学者スピノザは「神は自然そのものである」という汎神論哲学を編み出した。将来、新たな科学的知見に基づく自然観が「宇宙は生命そのものである」という論理を生み出すかもしれない。

仏教では、宇宙に遍満する法、すなわち宇宙に遍く満ちふさがっている真理を人々に受用させ人々を教化・指導する仏を、その性格によって三つに分けて法身・報身・応身(または化身)としている。以下『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著・春秋社)、『世界に開け華厳の花』(森本公誠著・春秋社)を参考に記す。

法身(dharma-kāya)は宇宙に遍く満ちふさがっている真理を人格化したものであり、それは真理の体現者としての理想の仏身である。法身には「法の集積」という意味がある。因みに身(kāya)には「集積」の意味がある。信仰の対象とされる法身仏として大日(Mahā-virocana 大毘盧遮那)如来・毘盧遮那仏がある。大日如来は仏教史上ずっと後に生まれた仏である。毘盧遮那仏から釈尊(またはお釈迦さま)の側面を切り離して、宇宙の真理を象徴する仏としたものである。

報身(sambhogaya- kāya)には阿弥陀仏(または阿弥陀如来)・薬師仏(または薬師如来)・盧舎那仏がある。阿弥陀仏の説法は、時間的には前世・現世・来世の三世にわたって無限(無量寿)であり、空間的には十方にわたって無際限(無量光)であり、人々の誓願に従ってあらゆる衆生を救済するとされる。薬師仏は一切衆生の病悩や無明の痼疾、すなわち真理に暗いため久しく治らない病を持っている状態を救済するとされる。「誓願」とは誓いを立てて神仏に祈願することであるから、「わが身も心もすべて御仏に委ねることを誓いますので、どうか私を救って下さい」と心からお頼み申し上げなければ救われない。その救われ方も、本人が無欲・無心でなければ、わが身や自分の愛する人などにどのような結果が起きようと、それを素直に受け容れることはできないであろう。

「救い」とはそのようなものであると私は思う。しかし起きたことについて「それは運命である」と諦めるのとは違う。前者は幸福感・安心感に包まれるものであり、後者は不幸・不安を拭い去ることができないものである。

応身(nirmān- kāya)は化身とも訳され、教化の対象に応じて、仮にある姿を化作した仏身である。これは報身のように三世十方にわたって普遍的に存在する完全円満な理想の仏身ではなく、特定の時代や地域や相手に応じて、それらの特定の時処における特定の人びとを救済するために出現する仏陀である。釈迦仏はこの応身である。梵天・帝釈・魔王・畜生等の姿を示すこともある。観世音菩薩・地蔵菩薩・不動明王なども応身である。

大日如来は宇宙に存在する絶対神のような神格を与えてしまったほとけさまであり、阿弥陀如来(阿弥陀仏)は、時間的には前世・現世・来世の三世にわたって無限(無量寿)で、空間的には十方にわたって無際限(無量光)の説法をされ、人々の誓願に従ってあらゆる衆生を救済するとされるほとけさまである。このように仏教の教えには時空を超えて無限に延伸する光のようなものをイメージしたものがある。

宇宙は無の一点から出発し、膨張し続けている。宇宙には私たちの地球がある宇宙以外に無数の宇宙があると理論上考えられている。この地球上の現象も私たちの人生も宇宙の中で起きていることである。私は、科学者たちが宇宙を一つの生命体であると考えなければ、宇宙の中で起きている様々な現象をうまく説明することができるようにはならないのではないか、と思っている。

これは哲学的な命題である。将来、様々な知見を基に、宇宙・自然を論理的に説明することが出来るようになるかもしれない。汎神論を超えた新しい哲学が誕生することを願いつつ、私自身もこの命題に取り組んで行こうと思う。